(画像は公式サイトのスクリーンショット)
「世界を震撼させた事件から2年」とか謳うから、硫酸を掛けられたフィーリンを中心として複雑な人間関係やドス黒い陰謀が暴かれるのかと期待したけれど、そっちはサッパリ新情報がなかったぜ!
この事件を取り上げた『奇跡体験!アンビリバボー』(だったっけ?)で見た以上の情報は特になかった。
正直なところ、フィーリン事件を宣伝の前面に出したのは失敗だったんじゃないかと思う。今作で描かれるのはボリショイ・バレエ団の抱える葛藤であり、そして監督が描きたかったのはロシアという国家自体が今も内包する矛盾だろう。
フィーリンの事件はただの「症状」に過ぎず、病巣はそこにはない。
とは言え、私は「ボリショイが腐敗しているのならばロシアも腐敗しているのだ」なんて言葉が最初に出て来たときは、「ハハハ、いくらボリショイが世界最高峰の劇場と言えどもたかが一劇場に過ぎないじゃないですかー、大げさっスよ」程度にしか思えなくて、終盤でメドベージェフ首相が登場するくだりになってようやく真顔になったんですけどね。
ボリショイ劇場の権力との癒着の歴史とか、もっと早く言ってくれても良かったんじゃないかなって……。
圧倒的な「美」というものは、観る者から言葉を奪う。それは余りにも極端だからだ。言葉なんて平凡なものが寄りつくのを拒絶するほどに、基準を飛び越えているからだ。
我々はどうして誰よりも秀でたものに惹かれてしまうのだろう。どうして普通で満足できないのだろう。
大きく穂を垂らす稲は植物の世界からすれば奇形だと言う。あまりにも過剰に穂を実らせるから、通常の環境では生き延びられないと。
手を掛けて「美」を伸ばす。世代を重ねて強化する。通常では満足できない。極みを欲する。なんとも罪深き、人間の欲望。
その極地の一つを体現しているのが、このボリショイ劇場で踊るダンサーたちだ。
彼女たちは誰もが才能に溢れ、そして野心にも溢れている。人間の業そのものだ。贅肉のないその肉体と同じように、その眼差しは研ぎ澄まされている。
だが夢を見る人間はあまりに多く、対する舞台の役は有限だ。
そして、野心を抱くのは何もダンサーだけではない。
ボリショイ劇場は元より皇帝お抱えの劇場であった。皇族がロシアの歴史から消え失せた後も、ロシアの威信を示す場として機能してきた。
ボリショイ劇場を己の道具として見るクレムリンは、劇場の全てに口を出す。
劇場で実際に演じるダンサーたち、その運営を担う上層部、そしてクレムリンの意向。野心を抱く人間が犇めき、誰もが自分こそが正しいと胸を張るボリショイは、不協和音を奏でて今にも倒壊しそうだ。
だが彼らが目指すものはたった一つ。他者を黙らせる圧倒的な「美」だ。
極言してしまえば、ロシアが内包する問題だとかボリショイが抱える内部抗争だとか、そんなことは私の知ったことではない。勝手に潰れるなり破滅するなりすれば良いのだ。成るように成るだろうし、成るようにしか成らないだろう。
だが演じられるバレエの美しさが、そんな突き放しを許さない。
挿入される舞台の場面が、もう何とも魅惑的なのだ。映されるのはほんの僅かな時間に過ぎないのに、それだけで心を鷲掴んで放さない。
バレリーナの痛そうな足先、余りにも細い身体。もはや生き物とも思えないほどに作り込まれたその表情。
なんと非人間的なのだろうと脳の冷静な部分が囁くのだが、それを黙殺する程にもっと根元的な部分が歓喜するのだ。
この抗えない極端への傾倒は一体何なのだろう。この荒々しい感情は理性を踏み殺して一顧だにしない。己の罪深さに驚愕する。
加えてこの映画の憎いところは、ダンサーたちの日常をも描いていることだ。彼らも一旦劇場を離れれば子育てや生活に追われる普通の人間なのだ。
だからこそ、突き放せない。私とは全く違う世界に生きる才能ある変人たちの話でしょ、と距離を取って冷ややかに笑うことが出来ない。
彼らは言う、ボリショイは夢だと。
加齢、怪我、家庭の事情。夢が破れるのは容易い。だが彼らはその儚い夢の上で、なんとか踏みとどまっている。多大な犠牲を払い、果てしない不安を抱きながらも、彼らは舞台の上では美しく微笑むのだ。
彼らは言う、ボリショイは夢だと。そして同時に言うのだ、ボリショイは病気だとも。
だがある一定以上の年齢になれば病を得るのは当然だ。健康は若い者だけの特権である。そしてロシアは決して若い国ではない。
その歴史はすでに後ろに長く伸び、根は深く下ろされている。それが張るのはしっかりとした土壌の中なのか、腐敗の汚泥の中なのか、あるいは両方なのか、そんなことは未来の人間にしたり顔で語らせてやれば良い。
今を生きる人間が出来ることは、ただ毎日を暮らし、今期は自分に与えられた役が多いと喜ぶことだけだ。
ぐらつく土台。見えない未来。確かなのは自分が歩いてきた道だけ。けれどもそれとて、正解だったのかは分からない。
けれども人生なんてそんなものだとも言える。果てしなく遠い画面の向こう側の人間が、果てしなく近しい存在に思える。
舞台で演じられる「美」と、ダンサーたちの日常生活の「普通」との間に落差がありすぎて、見ているだけでクラクラした。
ダンサーの一人が自分たちの職業を奇妙だと語っていたけれど、全くその通りだよ!
このクラクラ感、経験があるなと思ったらホフマンだよ。ホフマンの描く作品世界に似ているんだ。あの作家もお役所仕事と幻想小説の創作という、落差のある二足の草鞋を履ききった人間だったものね。
そしてついでにホフマンがドイツ人、西欧の人間であることを思い出し、そこから「西欧に対して劣等感を抱き続けている」なんて形容されることのあるロシアにとってはバレエって特別な存在だったりするのかなと連想したりもしました。
この映画を観にシネ・リーブル梅田まで行ったんだけどさ、日中に初めてスカイビルを近くから見た。今まで殆ど夜しか行ったことがなかった……こともないような気がするけど。
何が言いたいかと申しますと、太陽にキラキラ輝くスカイビルもいいなと思いました。
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