(画像は公式サイトのスクリーンショット)
媒体を問わず「物語」は全てラストシーンのために描かれるものだと私は思っているのだが、この映画はそれを究極的に突き止めた一作。
どうして台詞が一切廃されているのかなんて疑問も、最後の数分で納得出来た。
ここまで目的のために迷い無く他の物を切り捨てられるあたりに、このアレクサンドル・コット監督の未来性を感じる。
ちなみに原題はИспытание、意味は実験、試練。英題はTEST。
別にこの映画に限った話ではないが、ロシア語を英語アルファベット表記するの止めて欲しいな……。英語だと思うじゃない。ISPYTANIEって、何だその単語? 固有名詞?とか悩んじゃったじゃないですか。
草原にたった一軒だけ建つ小さな家に暮らすのは、少女ジーマ(エレーナ・アン)とその父親トルガ(カリーム・パカチャコーフ)。父親は毎日どこかへと働きに出かけ、少女は毎日彼の帰りを待っている。
出勤する父親の古いトラックの運転席に乗って、父親に教わりながら少女は運転をする。草原に伸びる車の轍を今日も踏みながら、トラックは行く。だがそれも分かれ道のところまで。
少女を降ろしたトラックは分かれ道の先へと去って行き、残された少女の元には馬がやって来る。それを操るのは、彼女の幼馴染みの黒髪の少年カイスィン(ナリンマン・ベクブラートフーアレシェフ)だ。
父と少年、それだけが少女の世界の全てであった。壁に貼られた世界地図に指を這わせても、彼女がその先に行くことはない。彼女が家の屋根から双眼鏡で見渡しても、今日もただ草原が広がるだけ……のはずであった。
少女が留守番をする家の近くで、どこから来たのか数人の人を乗せた車が故障した。修理のためだろう、水を求めて彼女の元へと歩いて来たのは金髪の青い眼をした少年マクシム(ダニーラ・ラッソマーヒン)。
少女は少年に水を汲んでやった。少年の青い眼には、彼女に対する好意が芽生えていた。
金髪の彼は何かと理由を付けては、少女の元を訪れるようになった。だが同時に幼馴染みの少年も、毎朝彼女を迎えに来る。ささやかな三角関係が始まっていた。
若い三人が人生の春を迎えつつある頃、少女の父親が酔って帰って来た。どうにも様子がおかしい。
少女が父親をなんとかベッドに寝かせた大雨のその夜、ゲートルを巻いた三人組が探知機を持って家を訪れた。不穏の影が広がって行く。
だがそんなこととは関係なく、家に巣を作った鳥の子はエサをねだって騒がしく鳴き、金髪の少年は愛嬌のある青い眼に笑みを浮かべて家を訪れ、黒髪の少年は馬上から彼女に手を差し伸べる。
草原は今日も果てしなく広がっていた。
主役の少女はやや表情が硬いのだが、その父親のお茶目さや、金髪の少年の青い眼の人なつっこさ、妙な体の軽さ、黒髪の少年のモンゴルの騎馬民族の如き朴訥とした雰囲気などが実に良い仕事をしている。
台詞は一切ないのに、いやそれが故に、一層彼ら登場人物の性格を想像する楽しみがある。
彼らの平和な生活が永遠と続いていくかのような説得力を持っているからこそ、時折挿入される不穏な予兆は直視されることなく印象の片隅に追いやられ、結果、衝撃的なラストシーンを一層衝撃的にしている。全てが終わってから、ようやく納得する。
以下ネタバレ。
結末には比喩なしに目が点になったわ! いやでも確かに予兆はあったよ。あのゲートル三人組の探知機とか、妙にフラフラと帰って来た父親の様子とか。
それにしたって、突然でビックリした。
けれど、そんなものなのかもしれない。昨日の続きに今日があっても、今日の続きに明日は無いのかもしれない。終わりはすぐそこで待ち伏せしているのかもしれない。突然でビックリするものなのかもしれない。
現代史に疎い私でも、ソ連時代のアレコレについては多少は知っているのだが、けれどこの映画がその行為に対する糾弾だとは感じたくない。そこまで矮小化して見たくはない。
この映画は過去の、未来の、そして現在、起こっている出来事に対する一つの端的な比喩なのだろう。
ラストシーンをもたらす手が人間だろうと自然だろうと、そんなことは些細な問題に過ぎない。終わりは終わりだ。 エンドマークがいつ打たれるかなんて、誰にも分かりはしない。
更に印象的なのは破滅の後に残された物だった。
黒髪の彼も、金髪の彼も、少女も飲み込まれた後、草原だった地に残るのが枯れ木と父親の死体ってのが、もう完全に黙示録。
無ではないからこそ、救いがない。
これがキリスト曰くの復活の予兆ならば、そんなのもう心底結構なので、スッパリ死なせてください、と私自身は思ってしまう。
しかしこれが単なる人間の排除ならば、それはそれで自由にしなされ。もう私には完全にあずかり知らぬ世界だもの。
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